この記事は平成17年5月5日に執筆したものを平成19年12月16日に大幅に改変している。なお趣旨は変わっていない。
ノーベル文学賞を受賞した大江健三郎氏など9人を発起人とした九条の会という団体は最早有名であろう。
私は平和である事を強く望む者だが、この団体の趣旨に賛同する事ができない。彼らの主張 (http://www.9-jo.jp/appeal.html) を引用しながら、彼らのおかしな点と、私の意見を述べよう。
ヒロシマ・ナガサキの原爆にいたる残虐な兵器によって、五千万を越える人命を奪った第二次世界大戦。この戦争から、世界の市民は、国際紛争の解決のためであっても、武力を使うことを選択肢にすべきではないという教訓を導きだしました。
第二次世界大戦が終わった直後、オランダはインドネシアに侵攻した。東アジアを狙って各国がけしかけたのは歴史的事実だ。植民地支配の傷跡としての中東情勢。「世界の市民」が誰を指しているのか分かりかねるが、現在に至るまで戦争は連続的に起こっている。
侵略戦争をしつづけることで、この戦争に多大な責任を負った日本は、戦争放棄と戦力を持たないことを規定した九条を含む憲法を制定し、こうした世界の市民の意思を実現しようと決心しました。
「侵略戦争」??「しつづける」?? 何の事だろうか。「日清戦争」「日露戦争」「満州事変」「日中戦争(支那事変)」「太平洋戦争(大東亜戦争)」と我が国は経験してきたわけであるが、何を持って「侵略戦争をしつづける」というのだろうか。
(余談だが、満州事変に対して私自身は次の点で良く思っていない。政府が当時及び腰だったとは言え軍部の独断で行った事、そして、手段として中国側のテロをでっち上げた事の2点である。きちんとした手続きを踏まえて軍を動かすべきであった。)
きっと彼らにとって大日本帝国イコール悪の帝国、旧日本軍イコール北斗の拳の悪党達(「ひゃっほ~!」っていうアレ)なのだろう。
しかるに憲法制定から半世紀以上を経たいま、九条を中心に日本国憲法を「改正」しようとする動きが、かつてない規模と強さで台頭しています。
繰り返しになるが、戦争は第二次世界大戦で終わったわけではない。現在も連続して戦争が起きている。不安定な世界情勢は何も変わっていないのだ。大国である日本が、自国の平和のみ考えるなどありえない。また、近年の東アジアの不安定さも不安材料となっている。そういう背景があるからこそ、自衛隊による国際貢献が行えるように、そして、自国を自国が責任もって防衛できるように、憲法を変えようという流れになっているのではないか。
その意図は、日本を、アメリカに従って「戦争をする国」に変えるところにあります。
戦争のするしないをアメリカの判断でハイハイとついていくのは決して許されることではないが、憲法九条改正論者の意図ではあるまい。そもそも日米同盟のつながりを緩くする、あるいは日米同盟が米軍を番犬として機能させられるかどうか怪しいから自国で実行力を持とうという話だと思うのだが。
少なくとも現行法では戦争が始まったら、もっと言えば、中華人民共和国や朝鮮民主主義人民共和国が攻撃してきたら本土決戦は必至である。
また、非核三原則や武器輸出の禁止などの重要施策を無きものにしようとしています。
「非核三原則や武器輸出の禁止などの重要施策を無きものにしようとしています」という根拠は何なのであろうか。少なくとも衆議院憲法調査会報告書[1, p236]には核兵器に関して否定的に書かれているのだが。
子どもたちを「戦争をする国」を担う者にするために、教育基本法をも変えようとしています。これは、日本国憲法が実現しようとしてきた、武力によらない紛争解決をめざす国の在り方を根本的に転換し、軍事優先の国家へ向かう道を歩むものです。
愛国心を持つことがそんなに悪いことなのだろうか。安倍総理が成立させた教育基本法で彼らが問題にした部分、第一章第二条五を見てみよう。
伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。
九条の会としては「伝統と文化を尊重し」、「我が国と郷土を愛する」ことを強制することに反対なのだろう。倫理や道徳は何もないところから湧いてくるものではない。教育する側が意識的に育もうとすることが何か問題なのであろうか。日本の伝統と文化を尊重したくなく、日本を愛したくないような教育者には非常に不快な法律かもしれないが。
また、「戦争をする国」を危惧しているようだが、よく分からない。軍事力は抑止力になるし、外交力にもなる。東シナ油田において、中華人民共和国は軍事力をちらつかせ、日本は引いた。明らかに敗北ではないか。当然ながらこのようなレベルで日米同盟は機能しない。日本の「戦争の出来ない国」っぷりを良いように利用されているのが現状ではないか。
さらに教育基本法の上の文言が「軍事優先の国家へ向かう道を歩むもの」に読めるという。国を愛すると軍事優先になるのか。
アメリカのイラク攻撃と占領の泥沼状態は、紛争の武力による解決が、いかに非現実的であるかを、日々明らかにしています。なにより武力の行使は、その国と地域の民衆の生活と幸福を奪うことでしかありません。
イラク戦争を非難するのは大いに結構だが、一例を挙げて「武力による紛争解決がいかに非現実的であるか」など分かるはずがあるまい。
一九九〇年代以降の地域紛争への大国による軍事介入も、紛争の有効な解決にはつながりませんでした。だからこそ、東南アジアやヨーロッパ等では、紛争を、外交と話し合いによって解決するための、地域的枠組みを作る努力が強められています。
ではなぜ紛争が起こるのか。平和的解決ができないから軍事的衝突が起こるのではないのか。戦争は軽々しくするものではないし、憲法を改正するのも「戦争したくてしょうがない」わけではない。日本が軍隊を持ったからといって、平和的解決を否定するわけではない。
二〇世紀の教訓をふまえ、二一世紀の進路が問われているいま、あらためて憲法九条を外交の基本にすえることの大切さがはっきりしてきています。相手国が歓迎しない自衛隊の派兵を「国際貢献」などと言うのは、思い上がりでしかありません。
「自衛隊の海外派遣(wiki)」によると、色々国際貢献をしているが、相手国が歓迎していないと決めつけるのも思い上がりではないだろうか。
因みに「後方支援」は戦争の支援活動であり、十分に違憲の可能性があると思う。石油資源の安定的確保は十分自衛の範疇であると考えるのだが、これを踏まえた支援活動まで憲法が禁止するのであるならば、絶対に改正しなければなるまい。
憲法九条に基づき、アジアをはじめとする諸国民との友好と協力関係を発展させ、アメリカとの軍事同盟だけを優先する外交を転換し、世界の歴史の流れに、自主性を発揮して現実的にかかわっていくことが求められています。
誰に求められているのか。「私たちは求めます」と書けばいいのだが、あたかも多くの人の意見であるかのような表現になっている。意図的におかしな文章にしているように思える。
「世界の歴史の流れに、自主性を発揮して現実的にかかわっていく」という部分だけを読めば同意できるのだが。アメリカだけでなく、中華人民共和国や朝鮮民主主義人民共和国、大韓民国、さらにはヨーロッパ連合などの言いなりにならず、是非とも自主性を発揮していただきたい。
憲法九条をもつこの国だからこそ、相手国の立場を尊重した、平和的外交と、経済、文化、科学技術などの面からの協力ができるのです。
おや、他の国は出来ないとでも言うのだろうか。
私は「九条の会」の主張には全く賛同できないし、憲法に自衛のための軍隊の所持、個別的自衛権、集団的自衛権を明記して欲しいと願っている。勿論、戦争は起こって欲しくないし、地球上から一切の争いがなくなればいいと思っている。しかし、それに対し日本国憲法第九条は何の役にも立っていない。日米安保の傘に隠れながら、日本は安全だ、どこにも攻め込まれていない、などと吹聴しても何の説得力もない。
日本が大国となった今、仮に日米安保が解消されたとしても、おいそれと攻撃してくる国はないかもしれない。しかし万が一に備えて他国の侵略行為に対する自衛策をとるのは、独立国家としての義務である。また、繰り返しになるが、大国となった以上は国際貢献としての軍事活動もすべきであると考える。
いわゆる左翼と呼ばれる「市民団体」「良心的な人々」は、非常に行動力がある。憲法改正には、国民投票で過半数が承認しなければならないという強い縛りがある[7 第9章]。彼らの「正しくない表現」による粘り強い運動によって憲法が改正できなくなる可能性は十分ある。
憲法改正を誤解している層、無関心な層、考え方の異なる層。とにかく反対である層。是非憲法改正支持層になって欲しい。私は政治活動をするつもりは毛頭無いが、一国民として憲法改正を支持していきたいし、それを広めていきたい。何か手軽に出来る手段があればいいのだが。